昭和44年04月19日 朝のご理解



 御理解 第76節
 「人間は人を助ける事が出来るのは有り難いことではないか。牛馬は我が子が水に落ちていても助けることが出来ぬ。人間が見ると助けてやる。人間は病気災難の時神に助けてもらうのであるから、人の難儀を助けるのが有り難いと心得て信心せよ。」

 「有り難いと心得て信心せよ」せっかく信心をさせて頂くのですから、本当に人が助けられる、人を助ける事が出来る程しの、信心を頂きたいと思います。そこのところを有り難いと心得て信心せよとおっしゃる。いわゆる手厚い信心をさせて貰う、行き届いた信心をさせて貰う。私は信心ばかりは、どんなに行き届いても、どんなに手厚くさせて頂いてもいいと思うのです。
 まあいうなら、損にならんと思うですね。もう信心はね他の事ならばね、「過ぎたるは及ばざるが如し。」といったような言葉が御座いますけれどもね、信心だけはどんなに過ぎてもいいと思うのです。お互いが矢張りあの、過ぎた程のおかげを頂きたいと思いませんか。自分の身には過ぎた、自分の思い以上の、そういうおかげは、誰しも頂きたいと思っているのですよ。
 ところがその、過ぎた、過ぎた程の信心をようしない。いわゆる行き届いた信心をしない。いかげを下さるであり、行き届く所に神様がそれこそ痒い所に手が届く様な、おかげを下さるのですよ。その信心をせずして、神様から痒か所だけ掻いて貰うという信心で人が助かるとは思われません。自分自身もそれでは助かりません。もう信心だけはどんなに打ち込んでもいいです。
 ま例えていうならば夕べはお月次祭でしたよね。あの様にまあ沢山な人がお参りをして、沢山なお供えがしてあった。今夜は前夜祭ですよまたお参りしてこんならん、「もう月次祭にお参りしとるけんで大祭にお参りすりゃよかろう」と。又もう月次祭でもあるけれども、前夜祭もあるけれども大祭にご案内頂いておるけんで、大祭の時に参りゃよかろうそれでひとかどの信心をしておる様な、自分が金光様の信心をしておる様な、気持ちでおるでは馬鹿らしいと云う事である。
 何かお広前の御用がある。昨日も出た今日も出た、明日も出ろうともうそがしこ、そりゃどんなに打ち込んでもよかってすよ。皆さんがおかげを頂きたいというそのおかげを頂く為にも。はあ、昨日も来なさった、一昨日も来なさったじゃないですか。もう今日は来んでよかですよと云う事は神様は言いなさらん。おかげは受け徳受け勝ちと仰るが、信心の方も矢張りそれでなからなければいかんです。
そういう信心がね、一つの成就を見る。それは、神様にどれだけ打ち込んだっちゃいいんだと、神の用をたせば氏子の用は神が足してやると仰る程の事をです、成程そうだと体験する所まで、そう思い込みが出来る所まで、信心をしていかなければいかんです。大祭前に一日だん御用に行かなん。そう言う所がですね私は馬鹿のごと私は素直に受けなければならんと思う。自分は是だけの事が出来ておるから、もうそれで良いと云う事じゃない。13日に御用が御座いましたね。
 皆さんで。17日も又全員、御用と云う事で御座いましたから御用が御座いましたね。今日も又御用が御座いますね、明日のいよいよの準備の仕上げが御座います。どんなに人間が多過ぎるごと邪魔のごとあったっちゃよいのですよ。神様は決して邪魔になるとは、おっしゃらないのですよ。そこんところをですめいめいが行き届いた。めいめいが手厚い信心をする事ですから、そういう是は、まあ私はここんところは、自分で確信を持って言えれる事なんですけれども、私自身がそうで御座いましたから。
 事神様事となったら何においても何をほうたらかしておいても、一にも神様、二にも神様、三にも神様でやって来たんです。ならその当時に私はそう云う事が出来れる身分であったかというと決してそうじゃなかったんです。それこそ、親が申しておりましたようにね、自分の仕事をほうからかしてしもうてから、決して信心をするなとは言わんけれども、家の事ぐらいはちゃんとしておいて、食べる事ぐらいな事は自分でちゃんとしておいて、そして信心したらどうかと言われよった。
 けれども私はもうそれこそ言わば神様の仰せには背かれんという生き方ですかね、一にも神様二にも神様でまあその時分は非常にまあ、あの人は信心にぼうけちゃるのじゃなかろうかと、もう信心もあげんなるならいかん、と言う風にも見られたり言われたりもしましたけれども、その後においてのおかげを、思うてみる時にそれこそ、一にも神様二にも神様であったが、一にも大坪、二にも大坪というて下さる様な、おかげを受けておる事実があるでしょうが。
 私いっぱしの手厚い信心。私なりの行き届けるだけの信心。行き届ける所まで。私そこん所にはですね、昨日は行っておるけんで、今日は行かんで良かろうちなってんもう是から先もなかったですよ。もう是だけの事をしておるけんで是はよかろうと言うような事は全然無かったです。なぜかっていうとですね、今思うとですねもうどれだけ、それをさして頂いておってもなら私共がね。
 もう神様がですもう大坪にはこがしこおかげをやっておるけんで、もう是より以上にやるよりいるめち云う事を仰らんのです。矢張り限りなく限りなくおかげを下さる。それにはそれにちゃんと言わば、そういうおかげの頂けれる信心を私がしておったからです、惜しいですよ皆さん本当に。そういうおかげを頂きたいなら自分の事どう言うとったっちゃ神様が時分の事と仰る、幾ら願う経っちゃさかたんぼうったっちゃ。
 頼む事だけはもうそれこそさかたんぼ打って頼むだけじゃ詰らんです。金光様のご信心はそれではね今日の75節にある、人は助けられると言う様な信心にはならない。人の難儀が助けれられると云う事が有難いと心得てと、助けるのが有難いと心得て信心せよと。そこでその何と申しましょうかね、そういうおかげを頂かなければならんから、又一生懸命に打ち込むと云う事であってもちょっとやっぱ可笑しいです。
 もう条件があるから真心じゃないです。はあ先生が言われるごともうとにかく、一生懸命神様事というたら一にも神様二にも神様で行こう。そげんしよりゃ神様が例えば一にも大坪二にも大坪というておかげを下さる様になるのだから、どうでもそげな信心をさせて貰うてま、自分もそげな風に、おかげを頂かせて貰おうと言う様な、条件があってはいけない所に信心の一つの微妙なね、デリケートな所があるのですよね。
 そこを神様は追及されるのは、真心なのです。私共の何十年前のそう言う様な時代にですね、こげなおかげを頂く事も出来なかったのですよ。実際何とはなしにそうしなければおられなかったのです。そういう信心を頂きたい。言うならば一生懸命神様の前、神様の前に尽くし抜かせて頂くと云う事が楽しみに成って来たのですね。言わばそれが有難くなって来たのです。
 一生懸命に一にも神様二にも神様三にも神様と尽くしぬかせて頂く事が楽しみに成って来るその先にです、人の難儀を助けるのが有難いと心得てと言った様なものが自ずと頂けれると思います。どうでしょうか。おかげを頂く事が有難いと思うからお参りもし、是だったらこの76節に合わない。はあお参りすればお参りするがとある、やっぱおかげを頂くからそれが楽しい。それが有難いからお参りしよる。
 人の難儀を助けるのが有難いと心得て、だから人の難儀を助ける事が有難いと云う事はですね、だからちょっとやっぱり難しいけれども、今私が申します様に神様の前に一生懸命打ち込ませて頂く。一にも神様、二にも神様と打ち込んで行く事が有難くなる、楽しくなると云う事は出来るです。その先なんです。それはどう云う事かというとそういう信心させて頂きよる内に自分も気が付かない間に、自分が助かって行きよる。自分が力を受けて行きよる。神様が行き届いたおかげを下さる様に成って来る。
 神様が一にも大坪、二にも大坪というておかげを下さる様に成って来る。何時の間にか。そこに行くからです、ですからそういう余力とでも申しましょうかね、もう、楽に人を助ける事が出来れる働きがそこから生まれて来る。そういう信心を目指して信心させて貰えとこういう。今朝から御大祭の事を又、今日の前夜祭の事を、今日皆さんが御用をされる事をお願いさせて貰いよりましたらね。
 下駄の鼻緒が切れておる下駄が幾らもある。鼻緒がきちっとしておるけれども横緒が切れておる。いや鼻緒も結ておりゃ横緒も付いておるけれども、下駄の歯が欠けとる。何時も下駄の鼻緒の事を真心と仰る。真心が欠けたのでは鼻緒が抜ておったのでは歩きにくい。横緒が抜けておったのでは歩きにくい。下駄の歯が欠けておったのではちんがらがったんになる。下駄ですからそうです。
 鼻緒が切れておってはいかん、鼻緒が切れておってはいかん、下駄の歯が欠けておってはいかんのですから、まして信心がです自分の信心ばかりはね、五体ごとするというけれども矢張り心が先です。心が動かなければ信心が出来ません。その動く心もです真心を持って動かなければいけないです。お参りでもお供えでも御用でも御用をしよるけれども、どことはなしに真心が欠けておる。私は横緒というのはどう云う事だろうかと思うたのですけれども、矢張りあの横のつながりと言った様なね。
 真心が神様に直結する訳ですね真心は縦に繋がって行くです。ならば私横緒というのは信者同士自分の横へのつながり。自分の一家というではなくてから、自分の隣近所の事までと言った様な横への繋がりというものが欠けておる。下駄の歯が欠けたっちゃ歩きにくいのを、自分の心がどちらかでも欠けたのでは本当の、まともな歩きは出来ない。そう云う事を銘銘検討して、おかげを受けて行けよと云う事であった。
 そして76節を頂きましたらです、一番最後の有難いと心得て信心せよと云う所を頂いた。ここだけですからどう云う事であろうかと、又次お願いして開かせて頂いたら、一人ひそかに信心せよとか、信心せよ信心せよと言う所を次々と頂いた。そこで私は信心する。折角信心せよと仰るのだから、信心させて貰うならば、もうこの位でよかと言ったものではなくて、いっちょ本気で信心に打ち込んで行かなければならない。
 信心せよ信心せよと信じる心と書いてあるが、いよいよなら神様に信じられる信心というのも勿論ですけれども、先ずあなたの隣におる所を家内に信じられよ。あなたの隣におる所の主人に信じられよ。自分の側におる子供に信じられよ。先ず是が出来ずしといてしです、神様に信じられる筈がないです。信心は出来ませんです。「内のお父さんは神様神様といって参りよるばってんから。
 家帰ってする事、言う事はもうざまなか」ともう家内から信じられんどいてから、信心が出来ていく筈がありません。「家のお父さんは大した事は出来ませんけれども是だけは間違いがない」と家内から信じられる。子供から信じられる。もう自分の周囲の誰彼から、信じられる私にならなければいけないです。是が信心です。そういう信心をさせて頂いて、是は、「人の難儀を助ける事が出来るのが有り難いと心得て信心せよ」と仰る、その信心せよと仰る。には先ずそういう信心のあり方にならにゃいけん。
 今申しております、私共が手厚い信心をさせて貰い、行き届いた信心をさせて貰い、もう神様の前には是で良いというのは絶対にない。もう出来るだけの事を神様の前には尽くして尽くして尽くし抜かせて頂く事が有難いと分からせて貰い、それが有難く成るという信心。ここの信心が出来ずしといてです、人を助ける事が有り難いと心得てと云う事は出来ません。自分な自分の周囲の誰からも信用されない。
 御用はいい加減、それであそこに難儀な人があるけんお導き、唯お導きをするという位な事で助かると云う事ではない。それが本当に助かる筈がない。自分自身が今私が申しました様な信心を踏まえての信心。先ず自分の手近身近な人達からでも間違いないと言われる私達に精進させて貰い、もうどれだけ打ち込んでも、どれだけ手厚い信心させて貰えておっても、行き届いた信心させて貰いよっても是で済んだと思わない、そしてそれが出来る事が楽しくなる。
 夫婦で御用に行く「もうよか俺が行くけんでお前行かんでよか」ち。折角夫婦が信心になろうとしよると親父の方がそげん言う。それこそ夫婦が手に手をとって御用に行こうと。それを「よか俺が一人で行くけんでお前はこっちにおれ」というごたる風でもうこういう考え方は、もう合楽の信心には絶対アピールしないです。もう汚かですその根性が。それけんでち言うてから。
 御用にお前も来いと強引に引っ張って来るという意味じゃないですよ。ようやく夫婦の信心が言わば揃うてきた。「お父さん、あなたが出るなら私も一日だん御用させて貰わにゃん」と。「もうよか俺が行きよるけんで」そう云う事がいかんちいう。私が此処の所に一つの思い込みを持って頂きたいのは、どれだけ打ち込んでも打ち込んでも良いと云う事。そういう信心が一つの形成をなすというかね。
 一つの思い込みが出来てしまう所まで私は打ち込んでいかなければいけん。そこの先にです、神様がこの氏子にはどがしこおかげをやったっちゃ、大丈夫というおかげが約束されると思う。それこそ神様が痒か所に手が届く様におかげを下さると私は思う。是は私の体験からそれをいいよるです。そういう意味でです、大祭という時にはそういう日頃の信心の稽古をさせて頂いておる。
 人の助かる事を人を助ける事が有難いと心得て信心せよと仰る様な教えを日ごろ頂いておる、そういう日頃の信心をまあいうならばそういう、信心をいよいよ表して行く私はもう絶好の機会だと思うのですね。そういうチャンスをお互い逃さない様に信心させて貰わにゃいけませんよ。だから例えば夕べが月次祭。是は当たり前にああして月次祭が出来た。もう明日はと言わずに矢張り今日の御用も。
 今夜の前夜祭も、明日の御大祭も勿論、明くる朝のまた、御大祭の後片付けの御用も反省会にも「もう本当にそげな事しよりゃ自分の仕事は何にも出来ないじゃないですか」と出来んでちゃするごたる気持ちになって御覧なさい、もう本当に信心が楽しく成って来るから。それが楽しく成って来る有り難く成って来るそういう先にしか、人の助かるのが有難いと心得てと言う様なそういう心得られない。
 まあ、今日は一つ本気で信心にぼうけてみなさいと云う事で御座いましたですよね。それこそ神様がぼうけたごとしておかげを下さるです。頼みも願いも何にもいらん。それでそげな日頃信心が出来んどいてただ、神様といえば頼む事拝む事、と云う事だけの様に思うておりますからね、一般の人は。だからそういう一つの通念と言った様なものをね、一つ、捨てさせてもらう。
 そしてそっから、人の難儀を助けるのが有り難いと心得て信心が出来る様な有り難い信心を身に付けさせて貰う。そこに自分の助かりというものを見出して行くと言う事。本気で手厚い信心を本気で行き届いた信心をさせて貰いましょう。又させて頂きたいと願わなければいけません。行き届いた信心をすれば神様が行き届いたおかげを下さるけんという、其処ん所に条件があっては真心がかける。
 鼻緒が切れておる様なもんである。それでは歩きにくい。おかげを下さらんともう、文句をいうごたる。だからそう云う事が有難いと分からせて貰う信心。それだけ打ち込んで行く事が、打ち込ませて頂く事が有難いと分からせて貰う信心、そういう信心をなんとか一つ工夫して身に付けていきたい。おかげはそれからの事。確かに人間はそこまで行く時に初めて人を助ける事が出来るのであります。
 そういうものを人間はみんな持っておる訳で御座います「人間は人を助ける事が出来るのは有難い事ではないか」と仰るだからここでは本当な意味で助けれる事が出来る助けれる事の出来るものを持っておる。それは牛でもなからなければ馬でもないからである。牛やら馬やら自分の子供が水におぼれておっても、それを助ける事は出来んのである。人間はそれを見ると助ける事が出来る。
 助ける事が出来れる、私共はおかげを頂いておる。只水におぼれておる所を助ける、そういう意味の助けるじゃなくて、今日私が言うのは本当に助けるという事。本当に助かるという事です。それは神様が助かる。助かりなさるという事でもある訳です。そこで神様が助かりなさる事のために、私は今日一にも押し、二にも押しと言う様にです、いわゆる手厚い行き届いた信心をせよとこう申しました。
 それはどう云う事かというと人を助ける事が出来れる稽古なのです。それが楽しく成って来ると言うところからです、本当の意味においての人の難儀を助けれるところからの力が頂けれる。その頃には神様の方が、もう余裕。例えば何ていうかね、言うなら神様の方が大坪総一郎の為にです、痒いところに手が届く様におかげを下さる様に、もうそげにゃ要りませんという位に限りなく無尽蔵におかげを下さる。ですからそういう、無尽蔵に頂くものをもって人を助けなければおられなくなって来るのです。
 それがますます有り難いのです。それがますます有り難く楽しい生活になって来るのです。そこんところが人を助けるのが有り難いと心得てというのはそういう意味だと思う。そういうおかげの頂けれる素質を是は人間だけしか持たないと云う事なんだ。それには今日私が申しました、本気で手厚い信心、行き届いた信心。そこにまあ、条件のようですけれども神様からいわゆる手厚いおかげ、行き届いたおかげを頂かせてもろうて初めて、人の難儀が助けられるという働きが出来るのだと云う事ですよね。
   どうぞ。